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    生産性の罠と、あえて止まること
    思考の砂場
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    生産性の罠と、あえて止まること

    タカシ ユウト/ TIELEC代表
    10 分で読める

    あまりうまくまとまる気がしないのですが、考えたことを残しておきます。

    前回、AIの学習は「仕入れ」である、という当たり前の話を書きました。あの記事のあと、思考がさらに転がっていって、全然違う場所にたどり着いたので、その記録です。


    何のためにこの時間を使っているのか

    ときどき、仕事中にふと思うことがあります。

    今、自分はパソコンに向かってキーボードを打っている。それだけ。この瞬間だけを切り取ったら、ただの入力作業です。

    もちろん意味付けはできます。働いてお金を稼いで、旅行に行く。働くことで成長する。生きがいを感じる。そういう物語を自分に語れば、自分を納得させることはできる。

    でも、それでも「何のためにこの時間を使っているのか」が消えないときがある。

    以前、楽になるために走り続ける矛盾についてという記事で、ピダハン族のことを書きました。アマゾンの狩猟採集民で、過去形も未来形も持たない言語を話す人たちです。1日3〜5時間ほど狩猟や採集をすれば、残りの時間は休息と会話と笑い。「将来のために今を犠牲にする」という発想がそもそもない。

    あの記事では、生産性が上がっても余暇は増えない構造的な矛盾について書きました。ケインズの予言、レッドクイーン効果、個人ではなく構造の問題であるということ。

    今回はもう少し手前の、個人の話です。自分自身が、まさにその構造の中で走り続けていることに気づいた、という話。


    AIが止まる理由を奪っていく

    最近、AIを使いながら半自動的に開発ができるようになってきました。壁打ちして、記事を書いて、ツールを作って。以前なら何時間もかかっていたことが、驚くほどのスピードで回る。

    これ自体は良いことだと思っています。

    でも、ちょっと怖いなと感じることもある。

    昔は、自然に止まれたんですよね。コードを書くのに時間がかかる。記事を書くのに気力がいる。構成を練るのに頭を使う。だからどこかで「今日はここまで」になっていた。

    今は違います。やろうと思えば、ずっと回せてしまう。

    生産性にとらわれると、その作業を止められなくなる。回せるから回す。出せるから出す。作れるから作る。

    これが、自分の中で「生産性の罠」と呼んでいるものです。

    前回の記事で書いたことが、そのまま自分に返ってきた感覚があります。「効率化された分、もっと多くのタスクが降ってくるだけなんじゃないか」と書いたのは構造の話でしたが、タスクを降らせているのが自分自身だったという。やりたいことをやっているからこそ、止まる必要がない。止まる必要がないから、止まれない。


    止まるのが怖いわけじゃない

    じゃあ止まるのが怖いのかというと、そうでもないんです。

    もし今日、一切の生産活動を止めたとして、自分の価値が変わるかといえば、別に変わらない。仕事の期日に間に合わないかもしれないけど、正直それだけです。自分の仕事が一日止まったとて、世の中への影響はほぼゼロ。

    止まったらどうするかと聞かれたら、サウナに行くか、近くのショッピングセンターを散歩するか、そのくらいだと思います。

    つまり、止まることに対する恐怖はない。止まっても虚無にはならない。

    ただ、止まるタイミングを自分で決めていない、という感覚がある。

    やりたいことをやっているし、やらされているわけでもない。でも、「自分が止めた」のではなく「自然に流れている」感じがする。アクセルは握っているけれど、ブレーキを意識的に踏んでいない。

    ピダハン族のことを思い出します。彼らは「止まる」も「走る」も区別していないのかもしれません。狩猟も休息も会話も笑いも、全部が分断されずに一つの流れの中にある。「今日はここまで」と切り替える必要すらない。

    でも私の世界では、「働く」と「休む」がはっきり分かれている。だから「止まるタイミングを自分で決めていない」という問いが生まれるし、それが小さな違和感になる。


    収束と拡散のバランス

    仕事中の時間は、基本的に「収束思考」のモードです。問題解決、構造設計、実装。目的に向かって絞り込んでいく。AIはこの収束をさらに加速させます。

    「収束思考」と「拡散思考」という概念は、アメリカの心理学者J.P.ギルフォードが1956年に提唱したものです(参考: Divergent thinking - Wikipedia)。ギルフォードは、知能の中に「一つの正解に収束していく思考」と「複数の可能性に広がっていく思考」があることを区別しました。創造性には後者——拡散思考——が欠かせないと。

    サウナの休憩中や、あてもなく歩いているときのことを考えると、この区別がしっくりきます。体がゆるんでいて、成果を出す必要がなくて、何かを決めなくてもいい。そういうときにぼんやり考えていると、不思議とアイデアが湧いてくることがある。意図的に考えているわけではなく、脳が勝手に情報を整理して、つなぎ合わせてくれている感覚です。

    たぶん、自分が本当に欲しかったのは「休む時間」ではなくて、この拡散モードの時間だったのかもしれません。

    収束だけでは息が詰まる。拡散だけでは形にならない。両方が必要で、でもAIによって収束が加速した結果、拡散の時間が相対的に減っている。そこに違和感があったのだと思います。

    ギルフォードの整理で面白いのは、拡散思考の特徴として「流暢さ」「柔軟さ」「独自性」「精緻さ」の4つを挙げている点です。どれも、急いでいるときには出てこない。余白がないと働かない力です。


    あえて止まるという設計

    時にはあえて一切の活動を止めてみることも大事なんじゃないか。そう考えるようになりました。

    それは怠惰ではなくて、主導権を取り戻す行為です。「やろうと思えばできるけど、あえてやらない」を自分で選ぶ。止まれるとわかることで、アクセルにも自由が戻る。

    前回の記事で「レッドクイーン効果」について書きました。同じ場所にいるために全力で走り続けなければならない構造。あれは社会全体の話でしたが、個人の中にも同じ力学が働いているように感じます。

    止まったらどうなるか。

    たぶん、一周回ってまたやりたくなるんじゃないかと思います。

    もしそうなら、それは生産性に支配されているのではなく、自分の中にちゃんとエネルギーがあるということ。回されているのではなく、回っている。


    ピダハン族にはなれないけれど

    前回の記事で、言語学者ダニエル・エヴェレットが20年間ピダハン族と暮らしながらも、最終的に発電機で動く冷凍庫とDVDコレクションを持ち込んだことを書きました。「もう粗末な暮らしには飽きていた」と。

    この話が興味深いのは、すごく正直だからです。

    「今を生きる」ことの価値は頭ではわかる。ピダハン族のように「この瞬間が完結している」生き方の美しさも見える。でも、一度「過去から未来への線」で人生を捉える文化の中で育ってしまった自分には、完全にそうはなれない。

    たぶん、それでいいんだと思います。

    完全にピダハン族になることはできないけれど、自分の中の拡散モードを意識的に取り戻すことはできる。「止まる」を設計に組み込むことはできる。

    「楽になるために走り続ける矛盾」を構造の問題として見たのが前回だとしたら、今回はもう少し個人的なところに降りてきた感覚です。構造は変えられなくても、自分の中のリズムは変えられるかもしれない。


    まだ整理しきれていないけれど

    AIの学習データの話から、なぜこんなところにたどり着いたのか、自分でもよくわかりません。技術の話をしていたはずが、「この時間は何のためにあるのか」という問いに変わり、ピダハン族を思い出し、生産性の罠を考え、ギルフォードの理論を引っ張り出し、サウナのことを考えている。

    でもこういう思考の転がり方自体が、拡散モードなのかもしれません。

    答えは出ていません。ただ、「あえて止まる」ということを、もう少し意識的に設計してみようとは思っています。

    あなたは、止まるタイミングを自分で決められていますか?

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