AIが仕事の生産性を大きく向上させようとしています。コードは瞬時に生成され、レポートは自動で要約され、デザインは数秒で仕上がる。効率化の波は、確かに来ています。

でも、その先に余暇が待っているという感覚がない。むしろ空いた時間で、もっと多くのアウトプットをしなければという空気が漂っている。生産性が上がれば楽になるはずなのに、なぜ私たちは走り続けるのでしょうか。

こう書くと、AI特有の問題に聞こえるかもしれません。でも実は、これはずっと前から続いている話です。

何度も繰り返された約束

経済学者ケインズは1930年に、技術進歩で2030年頃には週15時間労働になると予測しました。洗濯機は「家事からの解放」を約束し、パソコンは「ペーパーレス社会」を謳い、インターネットは「どこでも働ける自由」を示しました。

どれも時間の節約を掲げた。でも余暇は増えませんでした。

むしろメールは24時間返信を求められるようになり、リモートワークは仕事と生活の境界を曖昧にし、SNSは休息の時間すら情報の渦に変えてしまった。私たちは便利になったはずなのに、前より忙しい。

正直なところ、AIも同じ道を辿るんじゃないかと思っています。効率化された分、もっと多くのタスクが降ってくるだけなんじゃないか、と。

別の生き方は実在する

ここで一つ、対照的な例があります。

ブラジル・アマゾンのピダハン族は、1日3〜5時間ほど狩猟や採集をすれば、残りの時間は休息、会話、笑いに費やします。彼らには数を数える言葉がなく、未来を心配する習慣もなく、蓄積への執着もない。

言語学者ダニエル・エヴェレットは30年にわたり彼らと暮らし、こう証言しています。「ピダハン族は私がこれまで見た中で最も幸せな人々だった。彼らは一日中笑って楽しんでいて、うつ病や自殺という概念すら理解できない。」

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つまり、「働きたいときに働く」という生き方は、人間にとって不可能ではないんです。現に今も地球上のどこかでそうしている人々がいる。

問題は、じゃあ私たちもそうすればいいじゃないか、という単純な話ではないということです。

知っていても、できない

エヴェレットの話には、続きがあります。

彼は20年間ピダハン族と暮らし、「今を生きる」姿勢に深く影響を受けました。彼らから「未来を心配しない」「毎日最善を尽くす」ことの価値を学んだと言います。その影響は深く、彼はキリスト教信仰まで捨てました。

でも彼は、最終的に発電機で動く冷凍庫とDVDコレクションを村に持ち込んでいます。「ピダハン族のように20年暮らした後、もう粗末な暮らしには飽きていた」と。

これ、すごく正直だと思うんです。

頭では理解できる。「今を生きる」ことの価値も、「もっと」を求めない生き方の豊かさも。でも、それを実際に生きることは別の話です。エヴェレットは20年かけても、完全にはピダハン族のようになれなかった。

私たちは、一度「線」として人生を見る文化の中で育ってしまった。過去から未来へ向かう線。その線の上で「どこまで来たか」「どこへ向かうか」を常に問われる。「今ここ」に完全にいることができない。

ピダハン族には、おそらくこの「線」がありません。朝起きる、川に行く、魚を獲る、食べる、話す、笑う、眠る。それぞれの瞬間が完結している。「途中」じゃない。だから「もっと」を求める衝動が生まれないんじゃないか、と思います。

個人じゃなく、構造の問題

もう一つ重要なのは、エヴェレットには帰る場所があったということです。大学のポストがあり、出版契約がありました。だから彼は「学び」として経験を持ち帰れた。

でも私たちの多くには、降りた先の安全な着地点がありません。

資本主義は成長を前提としています。生産性向上は「同じ成果をより少ない労力で」ではなく「同じ労力でより多くの成果を」という方向に使われる。企業間競争がある限り、効率化で得た時間を休息に回す企業は、それを更なる生産に回す競合に負けてしまう。

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これは集団的なジレンマです。皆が一斉に「もう十分」と言えれば変わるかもしれない。でも一人だけそうすると不利になる。レッドクイーン効果——同じ場所にいるために全力で走り続けなければならない——というやつです。

だから、この問題は個人の意志の問題じゃない。構造の問題です。

それでも、諦めたくない

長い歴史の中でずっと変わらなかったことが、自分の生きているうちに変わるとは正直思えません。AIが生産性を劇的に上げても、その余剰は「もっと成長」に使われるんでしょう。富の分配は平等に行われず、格差は開き続ける。結局、勝ち負けの世界から抜けられないまま終わる——そう思う部分もあります。

でも、諦めたくない。

エンジニアとして、技術の方向性自体は間違っていないと信じています。人間が生きるのに必要なものは全て、AIが計算して生産するところまでいけるはず。問題は、その技術をどう使うかという、人間の選択です。そしてその選択は、まだ決まっていない。

ピダハン族の暮らしを見ていると、私たちが何を失ったのかが少し見えてきます。彼らは蓄積しないので、土地を疲弊させません。競争しないので、資源を奪い合いません。未来を心配しないので、「もっと、もっと」と際限なく求めることもない。

一方、私たちの文明は「成長」を追い求めながら、地球に大きな負荷をかけ続けています。より多く、より速く、より効率的に。でもその先に、本当に「幸せ」があるのか。

地球という星で生きる生き物として、人間に本当に求められている在り方は何なのか。その問いを持つことが、次の一歩につながると思っています。

別の道は、ある

「楽になるため」に始めた競争が、いつの間にか競争すること自体が目的になってしまった。そのループから抜け出す方法を、私たちはまだ見つけていません。

でも、ピダハン族が教えてくれるのは、「別の選択肢は存在する」ということです。蓄積しない、競争しない、未来を心配しない——その生き方で、彼らは幸せに暮らしている。私たちが「当たり前」だと思っている前提は、実は絶対ではない。

AIが本当に生産性を劇的に上げるなら、理論上は、人間が生きるのに必要なものを少ない労働で供給できるようになる。食料も、住居も、医療も。その余剰を「もっと成長」に使うのか、「もっと余暇」に使うのか。選択の余地は、まだあるはずです。

すぐには変わらないでしょう。構造は強固です。でも、「地球にとっての人間の在り方」を問う人が少しずつ増えれば、「もっと、もっと」以外の道が見えてくるかもしれない。

私はその可能性を信じ、諦めずに前へと進む。