まとまりのない文章になる可能性があります。でも、考えた過程をそのまま残しておきたくて書いています。
ある日、自宅のインターホンが鳴りました。
モニター越しに見ても心当たりのない人で、なんとなく怪しいなと思って出なかったんです。
しばらくしてポストを見たら、ある宗教団体の機関紙が入っていました。
中身をパラパラ見ると、特定の政治家をかなり強い調子で批判する内容で、使われている写真も意図的に印象が悪く見えるものが選ばれている。正直、「こういう活動をする人たちがいるんだな」と思いました。
これを見て私は不快というよりも、逆に興味が湧いたんです。
なぜこういう団体が存在しているのか。そして、こういうものを受け取って、本当に共感してしまう人がいるのだろうか。もしいるのだとしたら、それはなぜなのか。
心に隙間がある状態
調べてみると、こうした団体に引き込まれやすい人には、ある共通点があるようでした。
孤独を感じている時期。人間関係がうまくいっていない時。将来への漠然とした不安がある時。大切な人を亡くした直後。社会に対して怒りや不満を抱えている時。
つまり、心に隙間がある状態の人に、「あなたの不安には原因がある、答えはここにある」と差し出されると、普段なら見向きもしないようなものでも、すっと入ってしまうことがある。
ここまで調べて、正直ドキッとしました。
自分のことを振り返る
自分のことを振り返ってみました。
以前、仕事で板挟みになって精神的に消耗し、3ヶ月ほど休職したことがあります。「電池切れ」みたいな状態でした。あの時期の自分は、何かにすがりたいというよりも、むしろ社会から離れてゆっくりしたい、そういう気持ちのほうが強かった。
だから、自分がこうした団体に引き込まれるタイプだったかと聞かれると、たぶん違う。でも、それはたまたま自分がそうだっただけで、同じように消耗していても、「誰かとつながりたい」「どこかに属したい」という方向に心が動く人がいても全然おかしくないと思うんです。
そういう人のところに、「答えはここにあるよ」と自信満々に差し出してくる存在が現れたら?
それを簡単に跳ね返せる人ばかりではないだろうな、と思いました。
内側にいる人たちの心理
さらに調べていくと、こうした団体の内側にいる人たちの心理も、一枚岩ではないということがわかってきました。
本気で「正しいことをしている」と信じている人。疑問を持ちつつも、人間関係が壊れるのが怖くて抜けられない人。長くいすぎて、それが生活の一部になってしまっている人。
多くの人にとって、教えの内容が正しいかどうかは実はそこまで重要じゃないらしい。それよりも、「自分の居場所がある」「自分を必要としてくれる場がある」「やるべきことを与えてもらえる」という感覚のほうが、はるかに大きな動機になっている、と。
それを知ったとき、なんとも言えない気持ちになりました。
少し怖いな、と思ったんです。これは自分とは無縁の話だと言い切れるだろうか、と。
問題の根っこはどこにあるのか
ここまで考えて、一つ気づいたことがあります。
こうした団体が存在し続けていること自体が、社会の中に「受け皿のない人」がいることの裏返しなのではないか、と。
団体そのものを批判するのは簡単です。でも、仮にその団体がなくなったとしても、孤立している人がいる限り、また別の形で同じことが起きる。問題の根っこは、団体の側ではなく、人が孤立してしまう社会の側にあるのかもしれません。
じゃあ自分に何ができるのか
じゃあ自分に何ができるのか。
大げさなことは何もできないと思っています。でも、一つだけ思ったのは、「居場所がある」と感じられることの力は、想像以上に大きいということです。
脱会できた人の話を読むと、最終的に外の世界に戻ってこれた人の多くは、家族や友人が縁を切らずにいてくれたことが命綱になっていました。無理に説得するのではなく、「いつでも戻ってこられる場所がある」と示し続けること。地味だけど、それが一番効いている。
自分がやっている内省の活動も、結局のところ似たようなことなのかもしれません。「答えを差し出す」のではなく、「自分で考える力を持てるようにする」。それは、誰かに依存しなくても自分の足で立てるようになるための、小さな居場所づくりのようなものなのかな、と最近ぼんやり感じています。
「つながり」と「自己認識」について、さらに深く考えたい方には、以下の書籍が参考になります。
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問いとして残しておきたいこと
ポストに届いた一枚の新聞から、ずいぶん遠くまで来てしまいました。
結論はまだ出ていません。ただ、一つだけ問いとして残しておきたいのは、
「あなたの周りに、居場所がないと感じている人はいませんか?」
あるいは、かつての自分自身は、どうだっただろうか。
ということです。
そして、もしいるなら、答えを教えてあげることよりも、ただそばにいること。それだけで、何かの防波堤になっているのかもしれない。
少なくとも、自分はそう信じたいと思っています。