最近、あるツールを作ろうとしていて、葛藤を抱えていました。それは「内省力を測る診断ツール」のようなものです。技術的には作れる。設計も固まってきた。

でも、本当に作っていいのか——その問いが、開発を進めるほどに重くなっていきました。

その人の段階を「見えてしまう」ことの怖さ

診断ツールを設計していると、ある時点で気づいてしまうことがあります。

「この人は、おそらくこのあたりの段階にいる」

成人発達理論を学んだことがある人なら、分かると思います。メタ認知の使い方、自己と他者の境界の持ち方、「これは自分の見方に過ぎない」と気づけているかどうか——そういった「思考の痕跡」を見ていくと、その人がどの段階にいるかが、おおよそ推定できてしまう。

これは、知識として持っているだけなら問題ありません。

でも、それをツールとして実装し、結果として示してしまうとなると、話は別です。

成人発達理論が警告していること

成人発達理論には、明確な倫理原則があります。

発達段階は、外部から引き上げようとするものではない。

人は、今の世界の捉え方では支えきれなくなったときに、自然に次の段階へ移行する。それは本人の準備が整ったときにしか起きない。

だから、診断で「あなたは◯段階です」と示すこと、ましてや「次の段階を目指しましょう」と誘導することは、その人の準備ができていない段階を無理に提示してしまうことになりかねない。

これは、良かれと思っての介入であっても、踏み込みすぎてしまう可能性があります。

正式なアセスメントの存在

成人発達理論には、Subject-Object Interview(SOI)という正式な測定方法があります。

これは専門家が60〜90分かけて行う半構造化面接です。面接を録音・文字起こしし、訓練を受けた専門家が8時間ほどかけて分析する。語りの「内容」ではなく「形式」や「構造」を慎重に見ていくもので、実施には専門的な訓練(習得に約1年)が必要とされています。費用も10万円以上かかります。

Kegan自身が「コーチングに使うなら、数字以上のものが必要だ。その数字が、その人の中でどう生きているかを知る必要がある」と述べているように、発達段階を測ることは、本来それほど慎重に扱われるべきものなのです。

それを気軽に使える診断ツールにする——この時点で、すでに危うさを孕んでいるのかもしれません。

実際、成人発達理論を誤用して、「お前は◯段階だからこうだ」と人を格付けする道具として使ってしまうケースが指摘されています。

ウェルスダイナミクスとの比較

ふと、ウェルスダイナミクスのスペクトル診断を思い出しました。

あれも、ある意味では成人発達の段階を間接的に扱っている診断だと思います。ただ、「発達」という言葉を使わず、「役割」「価値創出スタイル」に翻訳している。しかも文脈を「ビジネス」に限定している。

だから、受け取る側は「人間としての上下」ではなく「得意な役割の違い」として理解できる。

それでも、上位スペクトルが「自由」「創造」と語られ、下位が「管理」「実務」に寄ることで、どうしても「進んでいる感」がにじみます。

つまり、どんなに気をつけても、診断という形式には構造的に「序列化の引力」が働く。

「でも、あった方がいいのでは?」という揺らぎ

それでも思うのです。

自分のメタ認知の使い方や、内省のクセを客観的に見る機会があること自体は、悪いことではないのでは、と。

ただし、それを「能力の高低」として見せるのではなく、「今、自分はこういう見方をしている」という鏡として提示できるなら。

比較や順位を出さず、発達段階を名指しせず、「次の段階」を目標化しない。

でも、人は自然に「他の人と比べてどうか」を知りたくなります。その欲求を無視すれば、消化不良が残る。かといって、順位を出せば、それは序列になってしまう。

「測れば、引き上げてしまう」というパラドックス

もう一つ、避けられない事実があります。

仮に診断ツールを作り、それを使った人が継続的に内省を続けたとします。すると、自然にメタ認知の力が上がっていきます。自分の思い込みに気づけるようになり、「これは事実じゃなくて、自分の解釈なんだ」と一歩引いて見られるようになる。

つまり、結果として発達段階が上がってしまう

これは、意図しなくても起きます。

それ自体は悪いことではない。でも、それを目的化した瞬間に、本質から外れてしまう

ここが、一番難しいところでした。

「作らない」ではなく「どう作るか」

いろいろ考えた末に、今はこう思っています。

「発達させる装置」ではなく、「支えの環境」として作る。

これは、Robert Keganが提唱した「holding environment(支えの環境)」の考え方に通じます。

発達は外部から押し上げるものではなく、本人が準備できたときに自然に起きる。私たちができるのは、その発達が起きうる環境を用意することだけです。

つまり、

そして何より、「分かってしまう」ことと「扱ってしまう」ことを分ける

設計者として内部的に推定できてしまうことと、それをユーザーに突きつけることは、まったく別です。

終わりに

散々迷いましたが、今はこの方向で作ろうと思っています。

それが本当に正しいのかは、まだ分かりません。

でも、この問いを持たずに作る人よりは、持ったまま作る人の方が、少なくとも無自覚ではいられない。そして、その「無自覚ではいられない」状態こそが、診断ツールを作る上で最も大切なことなのではないかと、今は信じています。

この葛藤を抱えた時間そのものが、作る資格の一部だったのかもしれません。

参考

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