まとまりのない文章になる可能性があります。でも、この違和感はどこかに書いておきたかった。
成人発達理論や内省について、それなりに長い時間をかけて研究してきました。ORIMDというフレームワークを自分で作るくらいには、内省について考え続けてきたつもりです。
その結果、メタ認知能力はある程度上がったと思っています。
でも、最近ずっともやもやしていることがあります。
「自分、達観してしまったんじゃないか」という勘違いを感じることが増えた。そしてそれが、すごく気持ち悪い。
成人発達理論の研究者たちは、メタ認知が高まるほど、ある種の「空虚さ」や「アイロニー」が生まれることを指摘しています。そういうものなのかもしれない。でも、そうやって理論を持ち出して自分を説明しようとすること自体が、また気持ち悪いんですけどね。
人間そんな簡単に達観なんてしないのに、誰かの発言を聞いているときに、どうしても俯瞰して見すぎてしまう自分がいる。「ああ、これはこういう段階の反応だな」「これはこういう心理メカニズムだな」って、勝手に分析モードに入ってしまう。
正直に言うと、この感覚が本当に嫌なんです。
知識が作る新しい檻
知識が増えると、世界の見え方が変わります。
心理学、組織論、成人発達理論。いろいろ勉強してきて、誰かが困っているときに、だいたいそれらの知識の組み合わせで考えられることが多くなりました。「そこから外れることってあんまりないなぁ」と思ってしまう。
でも、これって二つの可能性があるんですよね。
ひとつは、本当に知識が広くて深いから、多くのケースをカバーできている。
もうひとつは、知識というフレームワークで現実を「解釈してしまっている」から、そう見えているだけ。
おそらく両方が混ざっている。でも、後者の方が厄介です。
つまり、人が何か言ったときに、頭の中で瞬時に「ああ、これは○○理論のパターンだな」って分類される。そうすると、その人の体験の固有性や予測不可能性が見えなくなる。知識のカテゴリーに収まらない部分が、そもそも認識できなくなってしまう。
例えば、誰かが恋愛で悩んでいるとき、心理学的には「愛着スタイル」とか「投影」とかで説明できるかもしれない。でも、その人が感じている痛みや喜びの質感は、理論では捉えきれない。理論で「理解した」と思った瞬間に、その人の体験の生々しさを取りこぼしているかもしれない。
知識で世界が「分かりすぎてしまう」ことへの違和感。本当はもっと複雑で予測不可能で、理解できないものがあるはずなのに、って。
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伝えたくなる罠
もうひとつ、厄介なことがあります。
知識で解決できることが増えると、伝えたくなる。
知識マウントはしちゃいけないと思っている。でも、目の前で誰かが困っているのを見ると「これ知ってるのに…」って思ってしまう。相手が気づいていない視点を伝えるのは善意じゃないか、と。伝えたところで変わるか変わらないかは本人次第だし、伝えるだけ伝えてあとは手放せばいいんじゃないか、と。
でも、そこに引っかかりがある。
「相手が気づいていない視点」という前提自体が、既に「私の方が見えている」という構造を含んでいる。
成人発達理論を学んでいるなら知っていること。人は自分が準備できている段階でしか受け取れない。ということは、「伝えて手放す」って、相手が準備できていない段階で情報を投げて、その後は知らないよ、ってことにもなりかねない。
善意ではある。でも、それが本当に相手のためなのか、「伝えた」という自分の満足のためなのか。その境界線がグラデーションになっていて、自分でも判別しづらい。
だから気持ち悪いんだと思います。
完全な解決はない
じゃあ、どうすればいいのか。
答えがない。完璧もない。何もしないのが正解なのか、何かするのが正解なのか。それも答えがあるものではない。
結局は「自分がどうありたいか」以外に判断できるものは存在しない。自分の在り方に従って行動するけど、それによって相手がどのような影響を受けるかはコントロールすることは不可能。それを受け入れるしかない。
ただし、相手の反応を通じて、自分の在り方が問い直される。伝えた結果、相手が距離を置いたとする。それを「影響はコントロールできないから仕方ない」で終わらせることもできるし、「あれ、自分の在り方って本当にこれで良かったんだっけ?」と振り返ることもできる。
完全にコントロールしようとするのは傲慢だし、完全に手放すのも無責任。その間のどこかで、試行錯誤しながら生きていく。
組織学習の研究者ドナルド・ショーンが提唱した「リフレクション・イン・アクション」という概念があります。行動しながら振り返り、振り返りながら行動する。その姿勢でいたいと思っている。
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新しい檻が生まれる
でも、ここで詰まるんです。
「リフレクション・イン・アクション」と言った瞬間に、また理論の言葉で体験を置き換えている。「その姿勢でいたい」と言いながら、実は今この瞬間には、その姿勢じゃない。
これが最初から感じていた気持ち悪さの正体です。
メタ認知すればするほど、そのメタ認知自体が新しい檻になる。「メタ認知しないことこそが究極のメタ認知なんじゃないか」と思った瞬間に、それもまたメタ認知になっている。
言語化した時点で終わりなんですよね。「無心」って言った瞬間に無心じゃなくなる、みたいな。
禅の言葉に「仏にあえば仏を殺せ」というのがあります。メタ認知という「仏」に出会ったら、そのメタ認知すら殺せ、と。でも、殺そうとした瞬間にまた新しい「仏」が生まれる。
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完全に詰んでいます。
詰んでいることの救い
この状況に救いはあるのか。
正直、「救い」を探そうとすること自体が、また新しい檻を作るんですよね。「この状態から抜け出す方法があるはずだ」って思うこと自体が。
でも、逆説的だけど、こうも思います。
この「詰んでる」感覚があること自体が、実は救いなんじゃないか。
本当に達観してたら、こんなに気持ち悪くないはず。詰んでて、もやもやして、「あーあ」って言ってる時点で、まだ生きてるし、まだ動いてる。完全に固まっていない。
知識で世界が見えすぎてしまって気持ち悪い。でも知らない頃には戻れない。その間で、宙吊りになっている。その宙吊りの不快感こそが、まだ「途上」にいる証拠。
ソクラテスの「無知の知」。達観しているわけではない、無知だということを知っている。それが今の自分の立ち位置なのかもしれません。
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理性の限界と信仰の飛躍
こうなってくると、もはや宗教への回帰というか、理性じゃどうにもならない領域があることに気づいて、「じゃあもう神しかないじゃん」ってなる気持ちもわかります。
17世紀の哲学者パスカルは「心には理性の知らない理由がある」と言いました。19世紀の哲学者キルケゴールは、理性の限界の先に「信仰の飛躍」を置いた。でも、「神を信じることが救いだ」と理性で判断している時点で、同じループにはまっている。
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言葉を捨てるしかないのかもしれない。でも、こうして言葉で書いている時点で無理。
終わりなき宙吊り
結局、答えは出ませんでした。
完全には解決しない。言葉も捨てられない。でも生きている。もやもやしたまま。
この気持ち悪さは、知識を手に入れた代償なのかもしれません。昔の無邪気さには戻れない。それを受け入れながら生きていくしかない。気持ち悪さごと。
詰んでるままで、それでも日々は続いていく。
ブルース・リーが映画『燃えよドラゴン』で言った有名な言葉があります。
「Don't think. feel.」(考えるな、感じろ)
…って、それを「引用」している時点で、また考えてるんですけどね。