昨日、ニュースを見ていて違和感を感じることがありました。
殺人の容疑で逮捕された人がいて、その報道の中で、その人の中学校の卒業アルバムの写真や卒業文集の内容が映し出されていたんです。
確かに逮捕された人ではあります。でも、その人の過去をこうして晒す行為って、本当に必要なんだろうか。むしろ人権侵害なんじゃないか。そんなことが頭をよぎりました。
気になったので、少し調べながら考えを整理してみました。まとまりのない文章になるかもしれませんが、書いてみます。
「公益性」という言葉の裏側
報道機関は、こうした報道に「公益性」があると主張します。事件の背景を理解するために必要だ、市民の知る権利に応えている、と。
でも、中学時代の卒業文集が、成人後の事件とどこまで関係があるのか。冷静に考えると、説明がつかない気がします。
正直なところ、視聴率を取りたいだけなんじゃないか、という疑念が拭えません。「犯人はどんな人間だったのか」という野次馬的な関心は数字を取れる。センセーショナルな情報ほど注目される。広告収入モデルでは「見られること」が収益に直結する。
「公益性」という言葉が、商業的な動機を正当化するための便利な建前として使われている面は、否定できないように思います。
同級生への取材に意味はあるのか
同じ報道の中で、中学時代の同級生にインタビューしている場面もありました。「そういう犯罪をしそうな人だったか」を聞いている。
でも、その情報に意味があるのか、疑問です。
中学生なんて多感な時期です。そこから10年も経てば、考え方も価値観もかなり変わっているはずです。同級生は犯罪心理の専門家ではないし、10年前の印象を正確に覚えているわけでもない。
もっと厄介なのは、「後知恵バイアス」という心理現象です。「あの人が逮捕された」と知った後で思い出すと、人間の記憶は無意識に歪みます。「そういえば暗かった気がする」「なんか変わってた」と。実際には、どんな人でも過去を掘れば「それっぽいエピソード」は見つかるものです。
こういう取材の本質は、「犯人らしさ」のストーリーを作ることだと思います。視聴者が納得できる「悪人の物語」を構成する。でもこれは事件の理解には役立たず、むしろ「こういうタイプは危ない」という偏見を強化するだけではないでしょうか。
国際的に見ると、日本の報道は特異
調べてみると、容疑者の卒業アルバムや文集まで報道するのは、国際的に見るとかなり特異な慣行のようです。
北欧(スウェーデン、ノルウェー)やドイツでは、容疑者は原則匿名で報道されます。有罪判決が出ても、通常は匿名のままです。ドイツでは、一般事件の容疑者はファミリーネームの頭文字1字だけ(例:「マルセル・H」)で報道されます。
一方、アメリカや日本は実名報道が基本で、顔写真も公開されます。日本はさらに、過去の詳細まで掘り起こす傾向があります。
興味深いのは再犯率のデータです。ノルウェーの再犯率(出所2年以内)は世界で最も低く、20%程度。一方、アメリカでは80%という報告があります。
もちろん、「報道スタイル→犯罪率」という単純な因果関係は証明できません。北欧の犯罪率が低いのは、社会福祉制度や経済格差の少なさなど、複合的な要因が大きいでしょう。また、日本の「再犯者率」と北欧の「再犯率」は定義が異なるため、単純比較には注意が必要です。
ただ、示唆的なのは「哲学の違い」です。
北欧では「罰するよりも治す」ことに重きが置かれています。犯罪者も社会に戻ることを前提に、スティグマ(烙印)を最小化する。日本やアメリカでは「晒して社会的制裁を加える」ことで抑止力とする。結果として、社会復帰を困難にし、再犯につながる可能性すらある。
報道で過去を晒すことが犯罪抑止に貢献しているという証拠はなく、むしろ逆効果かもしれない。そう考えると、今の日本の報道のあり方には疑問が残ります。
「排除」の歴史的な根っこ
日本の犯罪者に対する態度には、歴史的・文化的な背景があるようです。
島流しという刑罰は、単なる隔離ではなく、「社会から切り離す」という象徴的な意味を持っていました。「村八分」も、共同体のルールを破った者を排除する慣習で、本人だけでなく家族まで巻き込まれる。
「穢れ」の観念もあります。犯罪者は「穢れた存在」として、関わること自体を避ける。これが犯罪者の家族まで差別される背景の一つです。
よく言われる「恥の文化」も関係しているかもしれません。「世間の目」を基準にする社会では、「世間に顔を晒される」こと自体が最大の罰になる。だからメディアも「晒す」ことに躊躇がなく、視聴者も「晒されて当然」と感じる。
今のテレビが卒業アルバムまで晒すのは、こうした歴史の現代版なのかもしれません。
「誰でも犯罪者になりうる」という視点
ここまで考えてきて、一つ重要なことに気づきました。
普通に生きている人だって、何かの手違いで犯罪者になってしまうことはありうる、ということです。
細心の注意を払って運転していても、交通事故を起こしてしまうことはある。その時の心身の状態によっても変わってくる。過失致死で逮捕されれば、その瞬間から「容疑者」として報道される可能性がある。昨日まで普通に暮らしていた人が、です。
冤罪のケースはもっと深刻です。何もしていないのに人生を破壊される。報道被害は、たとえ無罪になっても回復しません。
「自分は絶対にあちら側にはならない」という前提で、安全な場所から石を投げる。今の報道にはそういう構造がある気がします。でも現実には、誰でも「あちら側」に行く可能性がある。
だからこそ、感情や視聴率ではなく、法というルールで最低限のラインを決めておく必要があるのではないでしょうか。
40年間、変わっていない
調べてみると、この問題は40年以上前から指摘されていました。
日本弁護士連合会は1987年に「人権と報道に関する宣言」を採択し、「原則匿名報道の実現に向けて匿名の範囲を拡大すること」を求めています。元共同通信記者の浅野健一さんは1984年に『犯罪報道の犯罪』を発表し、実名報道主義を批判して議論を呼びました。
しかし、ほとんど変わっていない。むしろ悪化している面すらあります。2022年の少年法改正で、18歳・19歳(「特定少年」)については、起訴された場合に限り実名報道が解禁されました。
なぜ変わらないのか。
メディア業界の「ムラ社会」という指摘があります。批判的な声は排除され、自浄作用が働かない。「報道の自由」を盾に外部からの規制も拒否される。市民の声や世論の変化がない限り、自発的に変わる見込みは薄い。そういう構造があるようです。
問いとして残しておきたいこと
ドイツやスウェーデンでは、法律や報道評議会の規定で容疑者の匿名報道が原則化されています。それでも報道の自由は機能している。「報道の自由を守りながら、私人のプライバシーも守る」というバランスは、制度設計次第で可能なはずです。
今の日本の報道のあり方は、本当にこのままでいいのか。
「公益性」という言葉で、誰かの人生を取り返しのつかない形で晒すことを正当化していないか。
「犯罪者になるかもしれない自分」を想像できるかどうか。これが社会の成熟度を測る一つの尺度なのかもしれません。
答えは出ていませんが、この違和感は忘れないでおこうと思います。
関連書籍
この記事で言及した浅野健一氏の『犯罪報道の犯罪』は、犯罪報道の問題を深く掘り下げた書籍です。メディア倫理についてさらに学びたい方には、以下の書籍もおすすめです。
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