外を歩いていて、ふと聞こえてきた日本語がありました。おそらくアジア系の方が電話で話していて、特有のリズムというか、独特のイントネーションで日本語を話していたんです。

別に何か問題があったわけではないし、普通に会話が成立していたと思います。でも、なぜか引っかかった。「あ、この感じ、前にも聞いたことあるな」という妙な既視感がありました。

そのときはそのまま通り過ぎたんですが、家に帰ってからもその感覚が残っていて。正直、最初は何が気になったのか自分でもよくわからなかったのですが、考えているうちにひとつの問いが浮かんできました。

「なぜ、日本語に不慣れな外国人の話し方って、似て聞こえるんだろう?」

そこから、思考実験が始まりました。まとまりのない考察になる可能性がありますが、書き残しておきたいと思います。

なぜ似た話し方になるのか

最初の問いについて調べてみると、言語学的にはいくつか理由があるようです。

ひとつは「中間言語」という現象。第二言語を学ぶ人は、母語でも目標言語でもない「中間的な言語体系」を頭の中に作るそうで、学習段階が似ていると、出身国が違っても似たような特徴が出やすいらしい。

もうひとつは、日本語特有の難所が共通の「壁」になること。ピッチアクセントがうまく使えず平坦になる、助詞の使い方が不自然になる、敬語のレベル調整が難しい、といった点です。

さらに、教科書で習う丁寧な文型が多くなる一方で、ネイティブが使う省略表現(「ご飯食べた?」の「を」が抜けるような)が少ない。だからちょっと堅く聞こえる。

そう考えると、あの「既視感」は、日本語の難しいポイントと第二言語学習の共通パターンが重なって生まれたものだったのかもしれません。

助詞の不思議

調べていくうちに、助詞の話が面白いと思いました。

「助詞が抜ける」パターンは確かによく見られます。「私、日本、行きたい」みたいな感じですね。英語や中国語など多くの言語には日本語のような助詞がないので、そもそも「助詞をつける」という発想が身につきにくい。

でも実は、逆に「助詞を入れすぎる」パターンもあるんです。

ネイティブは日常会話でかなり助詞を省略します。「ご飯∅食べた?」「映画∅見に行かない?」という具合に。でも教科書で習った外国人は「ご飯食べましたか?」と律儀に全部入れる。文法的には正しいんですが、ちょっと堅く聞こえる原因になります。

つまり、「抜けるべきでないところで抜けて、抜いていいところで入れる」というズレが起きやすい。助詞の有無だけでなく、「どこで省略するのが自然か」という感覚がネイティブとの差になっているようです。

この「省略の感覚」って、教科書ではほぼ教えてくれないんですよね。

言語的近さという視点

ここで、ふと別の問いが浮かびました。

「日本語に近い言語ってあるんだろうか?」

調べてみると、圧倒的に近いのは韓国語でした。語順がほぼ同じ、助詞の仕組みがそっくり、敬語体系が発達している、漢字由来の単語が多い。韓国人が日本語を学ぶと、助詞の感覚がすでにあるので、さっきの「省略の感覚」も比較的つかみやすいらしい。

逆に、英語や中国語、ヨーロッパ系の言語は遠い。語順も違うし、助詞の概念自体がないので、ゼロから感覚を作らないといけない。

そこからさらに思考が広がりました。

「言語的な近さって、移民の定着にも影響するんだろうか?」

日本と韓国の事例

日本に在日韓国人が多く定着したのは、もちろん歴史的・政治的理由が大きい。植民地時代の渡航、朝鮮戦争前後の避難、地理的な近さ。

でも「定着」という観点で見ると、言語的近さも影響した可能性はあるかもしれません。来た後に日本語を習得しやすかった、二世・三世が日本社会に溶け込みやすかった、といった点で、言語的ハードルの低さは適応を助けたのかもしれない。

ただ、これだけでは検証にならない。他の国の事例も見てみたくなりました。

ニュージーランドの歴史と言語

条件を揃えて比較するために、ニュージーランドを考えてみました。島国、先進国、移民受け入れ国、という点で日本と似ています。

でも、ニュージーランドには重要な歴史があります。

マオリの人々が最初にニュージーランドに到達したのは1000年ほど前、ポリネシアからカヌーに乗ってやってきたとされています。彼らは独自の言語(マオリ語)と文化を築きました。

その後、1840年のワイタンギ条約でイギリスに併合されてから、本格的な「英語化」が始まります。植民地政府は教育に関する法律を制定し、マオリ語を話す児童に懲罰を課し英語教育を普及させました。マオリの子供が英語のみで教育を受ける環境になり、20世紀中にマオリ語が消滅するのではないかという懸念もあったそうです。

しかし、1987年にマオリ語は英語と並んで公用語に認定され、現在は復権運動が活発化しています。それでも、ニュージーランドは事実上、英語が支配的な社会です。

現在のニュージーランドに多い移民グループを見ると、イギリス人(言語同じ、文化近い)は非常に溶け込みやすく「移民」という意識すら薄い。オーストラリア人も同様。太平洋諸島系(サモア、トンガなど)はマオリ語と同じポリネシア語族で、言語的・文化的に親和性がある。一方、中国系・インド系は言語的距離が遠く、比較的コミュニティ内で固まる傾向がある。

これを日本と並べてみると:

日本 ニュージーランド
韓国人(言語近い) 英国人・豪州人(言語同じ)
中国人(漢字は共通、文法は遠い) 太平洋諸島系(語族が近い)
欧米系(言語遠い) アジア系(言語遠い)

どちらも「言語的に近いグループほど社会に分散して溶け込み、遠いグループほどコミュニティを形成する」傾向がありそうです。

ただ、ここである重要な違いに気づきました。

ニュージーランドと日本の決定的な違い

ニュージーランドの母語 = 英語 = グローバル共通語
日本の母語 = 日本語 = ローカル言語

ニュージーランドは最初から「収束先」にいるんです。英語という世界言語を話す国と、日本語という独自の言語を保つ国。この違いは大きい。

でも、ここで思考が止まりませんでした。

マダガスカルの特殊性

マダガスカルは、地理と言語が「ズレてる」珍しいケースです。

地理的にはアフリカの隣なのに、言語(マラガシ語)はオーストロネシア語族で、インドネシア語やマレー語の親戚なんです。約1500年前に東南アジアから海を渡ってきた人々がルーツだから。

つまり「地理的に近い国」と「言語的に近い国」が一致しない。

実際の移民パターンを見ると、フランス語話者(フランス人、他のフランス語圏アフリカ出身者)は馴染みやすい。一方、地理的には遠いけど言語が近いはずのインドネシア人・マレーシア人の移民は、そもそもほとんどいない。

これが示唆するのは、言語的近さは「定着のしやすさ」には影響するけど、「そもそもどこに移住するか」は経済的・歴史的・地理的要因が優先される、ということかもしれません。

アイスランドの孤立と変化

アイスランドは、また別の特殊ケースです。

アイスランド語は古ノルド語がほぼそのまま保存された言語で、他の北欧語とは同じ語派なのに、相互理解がかなり難しいレベルまで離れています。

つまり「言語的に近い国がほぼ存在しない」という珍しい状況。

実際の移民構成を見ると、ポーランド人が最大グループ(言語は全然違う)、リトアニア人、フィリピン人も多い。他の北欧諸国からは意外と少ない。

なぜこうなるかというと、言語的近さがほぼ効かない環境なので、経済的要因(2000年代の好景気で労働者需要)、EU/EEA圏内の移動の自由、「どうせアイスランド語は誰にとっても学習が必要だから、英語で乗り切れる」という環境、これらが支配的になっている。

そして今、アイスランドでは英語化が進んでいます。人口35万人しかいない、若者はNetflix、YouTube、ゲームを全部英語で消費、13〜15歳の30%が友人とは英語で話すというデータもあり、観光業が急成長してレイキャビクでは英語で生活できてしまう状況で、アイスランド語の「危機」が真剣に議論されているそうです。

アイスランドは「孤立言語だから言語距離が無効化」と言いましたが、英語化が進むと結局フィリピン型(英語力だけが変数)に収束していく可能性があるんですね。

中間まとめ:見えてきたこと

ここまで考えて、少し整理してみました。

1. 「どこに行くか」と「どう定着するか」は別の変数

移住先の選択は、歴史的経緯、地理的近さ、経済機会、制度(ビザの取りやすさ等)が支配的。言語はここではあまり効かない。

2. 言語的近さは「定着の質」に効く

来た後の話として、言語が近いと社会に分散して溶け込みやすい、遠いとコミュニティ内で固まりやすい、という傾向がある。

3. 言語的近さが「使えない」環境もある

アイスランドのように、そもそも誰にとっても言語が遠い場合、この変数は無効化されて、経済・制度要因だけが残る。

4. 言語と地理がズレると面白いことが起きる

マダガスカルのように、地理的に近い国と言語的に近い国が一致しないと、言語の効果が見えにくくなる。

つまり、言語的近さは「移民がうまく溶け込めるかどうかの潤滑油」みたいなもので、主要エンジン(経済・歴史・地理)ではないけど、あると定着がスムーズになる調整変数、という位置づけなのかもしれません。

ただ、ここで思考が止まりませんでした。

パプアニューギニアが示すもの

パプアニューギニアは、これまでの議論をひっくり返すかもしれない事例です。

人口約1000万人に対して、言語が800以上ある。つまり平均1万人ちょっとで1言語。隣の村と言葉が通じないのが普通。

その結果どうなったかというと、「誰もが第二言語でやりとりする社会」になった。共通語としてトク・ピシン(ピジン英語)が発達して、国内のコミュニケーション自体がそれで回っている。

これが示唆するのは、今までの議論では「移民の母語」と「受入国の言語」の距離を見てたけど、パプアニューギニアでは現地人同士がすでに第二言語で話してるということです。

つまり、「母語での溶け込み」という概念自体が存在しない。全員が同じ土俵(トク・ピシン)で話している環境。

すっと腑に落ちる感覚がありました。言語的近さが効く前提条件として、「その社会が母語ベースで回っているかどうか」があるのかもしれない。

フィリピンの三層構造

フィリピンは、また別のパターンでした。

言語が170以上ある(パプアニューギニアほどじゃないけど多言語)、でもタガログ語ベースのフィリピノ語が国語、さらに英語が公用語として普通に通じる、という三層構造。

パプアニューギニアではトク・ピシン(ローカルなピジン)が共通語だったけど、フィリピンでは英語がその役割を担っている。

移民・外国人の立場で見ると、英語話者は最初から溶け込める、非英語話者でも英語経由でアクセスできる、現地語(タガログ語)を覚えなくても生活が成立する、という状況。

ここで気づいたのは、「何語との距離か」が問題になるということです。フィリピンでは現地語との距離じゃなくて、英語との距離だけが効く。ある意味、言語的障壁が「英語」に一元化されている。

類型化してみる

ここまで考えて、社会のタイプを整理してみました。

社会のタイプ 言語距離の効果
母語社会(モノリンガル) 効く 日本
母語社会だが孤立言語 無効化(全員に遠い) アイスランド
ローカル共通語社会 そもそも意味がない パプアニューギニア
グローバル言語社会 英語力だけが変数に フィリピン、ニュージーランド

そして、大きな流れとして、こういうことかもしれません。

段階 状態
以前 各国の母語との距離が問題
過渡期 孤立言語は「誰にも遠い」で中和
現在〜未来 英語との距離に一元化されていく

日本の位置

先進国で、経済規模が大きくて、なのに英語に収束していない国って実はかなり珍しい。ドイツもフランスも国内では自国語だけど、英語話者率は高い。

日本は「経済的に開かれているのに、言語的には独自の環境を保っている」という稀有なケースなのかもしれません。

そして、最初の問いに戻ってきました。

「外国人が似たような日本語を話す」現象が観察できること自体が、日本の言語的特異性の証拠なのかもしれない、と。

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言語と文化の関係について、別の角度から考察した記事もあります。

/ja/journal/sandbox/running-to-rest-paradox

問いを残して

街で聞いた日本語から始まった思考実験は、こんなところまで広がりました。

正直、何か結論が出たわけではありません。むしろ新しい問いが増えました。

まとまりのない考察になりましたが、日常の些細な観察から始まった問いが、思いがけず広がっていく感覚は、悪くないなと思いました。

あなたはどう思いますか?


参考資料

言語学・第二言語習得

ニュージーランド

パプアニューギニア

アイスランド