期待と願いの違いについて考えていたら、いつの間にか会社の評価制度の話になって、最終的には組織のあり方そのものに辿り着いてしまいました。思考の過程を整理するというより、考えながら書いている感覚に近いです。でも、この思考のプロセスをそのまま残しておきたいと思いました。

期待と願い、何が違うのか

私は「期待する」という言葉を使わないようにしています。人に対して期待するという気持ちも、できるだけ持たないようにしている。

でも「願い」は持ってもいいと思っています。むしろ、こちらを意識するようにしています。

この二つ、明確に違うんです。

期待には、どこか「相手はこうするはずだ」「こうあるべきだ」という前提や要求が含まれている。だから期待が外れると、失望や怒り、時には相手を責める気持ちが生まれやすい。期待する側が、結果を握りしめている感覚があります。

願いは、「こうなったらいいな」と思いながらも、結果は相手の自由に委ねている。叶わなかったとしても、それは相手の選択や事情として受け止められる。手を開いている感覚。

握るか、開くか。この違いは小さいようで、とても大きい。

会社の評価制度は「期待」でできている

この違いに気づいてから、ふと思ったんです。

会社の評価制度って、願いじゃなくて期待を前提に設計されているんじゃないか、と。

評価制度の言葉そのものが「期待」で満ちています。「期待を上回る」「期待通り」「期待を下回る」。目標を設定し、達成したかどうかで人を測る。未達なら低評価、説明責任、時には詰められる。

これはまさに「相手はこうするはずだ」という構造で、結果を握りしめている側(会社・上司)が、握られている側(社員)をコントロールする仕組みになっている。

だから評価面談で人が消耗したり、期待を下回ったときに自己価値まで揺らいだりする。本来は「行動の結果」の話なのに、「存在の価値」にすり替わってしまう。

これって、働きづらさを生んでいる根本原因の一つじゃないか。

もしこれが願いを前提にした評価制度になるなら、もっと仕事は楽しくなるんじゃないか。そう思いました。

願いベースの評価制度を考えてみる

「願いベースの評価制度ってなんだよ」って感じだと思います。正直、私もわかりませんでした。

まず世の中に実例があるか探してみました。

ノーレイティングという取り組みがあります。AdobeやMicrosoft、GE、Accenture、IBMなどの大手企業が導入していて、日本ではサッポロビールが2020年に導入、カルビーも過去に導入していました。

年度単位でのA・B・Cなどのランク付けをやめ、リアルタイムで目標設定を行い、上司と対話しながらフィードバックをもらう仕組みです。

これは「測って裁く」から「一緒に見る」への転換といえる。

ティール組織という考え方もあります。オランダの「ビュートゾルフ」という在宅ケア組織では、看護師が10〜12名のチームに分かれ、そこに地域マネジャーはおらず、上司と部下という序列がない。重要な判断はすべてチームで決めています。

ティール組織については、以前詳しく考察した記事があります。

/ja/journal/organizational-theory/teal-organization

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でも、これらも「期待の構造を緩めた」に近い気がしました。完全に期待をなくしたわけではない。

じゃあ、ゼロから設計してみようと思いました。

従来の評価制度が「期待ベース」になる構造を分解すると、こうなります。

この三点が強く結びついているから、「握られている」感覚が生まれる。

願いベースにするなら、この結びつきを緩める必要がある。

たとえば、こんな設計原則はどうでしょう。

  1. 目標を「約束」から「方向」に変える
  2. 存在の承認と、成果へのフィードバックを分離する
  3. 評価面談を「裁きの場」から「振り返りの場」に変える
  4. 報酬との接続を緩やかにする

ただ、正直ここで詰まりました。「報酬をどう決めるか」が一番の難所です。

願いベースで関係性を築いても、最終的に給与や賞与に差がつく瞬間に「やっぱり測られていた」という感覚が戻ってくる可能性がある。

本人の自己申告から始める

考えていて、一つのアイデアが浮かびました。

本人の自己申告をベースにしたらどうか。

それをベースに対話を重ねて、調整する。原資の問題もあるから本人の希望通りとまではいかないと思うけど、会社主導じゃなくて本人主導でまず考えてもらう。

従来の評価制度では報酬は「会社が決めて、本人に通知する」。つまり主語が会社にある。これって「期待に応えたかどうかを会社が判定して、対価を決める」という構造そのものです。

本人が「自分はこれくらいだと思う」をまず出す、というのは主語が本人に移る。それだけで関係性の質が変わります。

しかも「自己申告して終わり」ではなく「それをベースに対話する」というのが重要で、ここに願いの構造がちゃんとあります。

そして、この自己申告のとき、本人は何を根拠に「自分はこれくらい」と言うのか。

成果? 役割? 市場価値? それとも「自分が納得できる暮らし」みたいなもの?

その根拠についても、まずは本人の中で考えた方がいい。

一律同じという方が逆に変だと思うんです。人によって仕事に求めているものが違う。ある人は「自分はこの成果を出したから」と言うかもしれないし、別の人は「この役割を引き受けているから」と言うかもしれない。「家族を養うためにこれくらい必要だ」という人もいていい。

それぞれが自分の言葉で、自分の根拠を持ってくる。その根拠自体がその人の仕事観や人生観を映し出すわけで、そこから始まる対話の方がよほど豊かだし、上司も部下のことを深く理解できる。

同一労働同一賃金を見直す

ここまで考えて気づいたことがあります。

同一労働同一賃金の原則があると、この枠組みを壊さないといけない。

同一労働同一賃金って、まさに「期待ベース」の究極形とも言えます。「この仕事にはこの値段」という発想で、仕事に値札がついている。人ではなく労働に対して対価を払う構造。

この原則が生まれた背景には、不当な差別をなくすという切実な理由がありました。同じ仕事をしているのに性別や雇用形態で賃金が違うのはおかしい、という正当な問題意識。だからこの原則自体が「悪い」わけではなくて、ある時代の不公平を正すために必要だったんです。

でも、この原則は「公平」を担保する代わりに、人を仕事の機能として扱うことを前提にしてしまっている。同じ労働をしていても、その人がそこに込めているもの、背負っているもの、求めているものは違う。そこを一律にすることが本当に「公平」なのか。

差別をなくすための公平と、一人ひとりを尊重するための公平は、実は別物かもしれません。

前者は「同じに扱う」ことで守られるけど、後者は「違いを認める」ことでしか守れない。

3人での対話と、信じる力

じゃあ具体的にどうするか。

こんなアイデアを考えました。

まずは自己申告で金額を示して、その人と仕事で関係の近い2人と、3人で対話をした上で、最終的な申告額を決める。

「関係の近い2人」というのがポイントです。上司ではなく、実際に一緒に働いている人。その人の仕事を一番近くで見ていて、かつ抽象的な評価基準ではなく「肌感覚」で語れる人。この対話から出てくるものは、評価シートの点数よりよほど正確だと思います。

もちろん「3人が結託して異常に高い金額で着地する」みたいなリスクはあります。

でも、そこはやっぱり、信じる気持ちがベースにないとダメだと思うんです。

従来の制度設計って、基本的に「人は放っておくと不正をする」という前提で作られています。だからルールで縛り、チェック機構を設け、例外を潰していく。でもそうすればするほど、人は「信じられていない」と感じて、制度をハックする方向にエネルギーを使い始める。皮肉なことに、不信が不正を生む構造になっている。

信じることで、正常な状態に収束する力を育てる。

異常値が出たとしても、それを制度で潰すのではなく、組織の文化や関係性の中で自然に調整されていく力を信頼する。

これってまさに「期待」ではなく「願い」の構造そのものです。制度が人をコントロールするのではなく、人が自律的に健全さを保つことを願って、その力を信じる。

テクノロジーが可能にする「見守る」仕組み

ただ、完全に野放しというわけにもいきません。

ここで、秘密計算という技術が使えないかと考えました。

3人の対話の内容は議事録として残しておくんだけど、暗号化した状態で保存する。それで後からその判断が正しかったかどうかは、暗号化されたデータをそのまま秘密計算で使って妥当性を判断する。

何がいいかというと、「見られている」というプレッシャーなしに、でも「後から検証可能」という安全網がある状態を作れるところです。

普通、透明性と心理的安全性はトレードオフになりやすい。全部オープンにすると正直に話せなくなるし、完全に閉じると歯止めが効かなくなる。

秘密計算を使うと、対話の中身は誰にも見えないけど、暗号化されたまま「組織全体の分布から著しく外れていないか」「特定のグループだけ偏っていないか」みたいな統計的な妥当性チェックはできます。

つまり個人のプライバシーと組織の健全性を両立させられる。

そして、この妥当性を判断する主体をLLM(大規模言語モデル)にします。

人間が判断すると、どうしてもそこに権力が生まれます。「この人は妥当、この人は異常」と判定する立場の人間がいる時点で、また「握られている」構造に戻ってしまう。

LLMに判断させるというのは、その権力の発生を防いでいる。しかもただのルールベースのアルゴリズムではなく、「願いベースで、一人ひとりの違いを尊重し、信頼を前提にする」という価値観をプロンプトに込められます。

さらに、LLMは「裁く」のではなく「見る」ことができます。人間の上司が異常を検知すると「なぜこんな金額にしたんだ」という詰めが始まりやすい。でもLLMが「この対話の着地点は組織全体の文脈から見ると少し特異です」と示すだけなら、そこから改めて本人たちが対話し直せばいい。

判定ではなく、気づきの提供。

ここまで考えたとき、パズルが解けたかのような気持ちになりました。

「いきる組織」という名前

この一連の仕組みに、名前をつけたくなりました。

最初は「開掌経営」とか「願信制度」とか、漢字の組み合わせを考えました。でもどれもしっくりこない。古風すぎる気がしました。

それで、この思想の核にあるものを一言で言うと何だろうと考えました。

信じる、コントロールしない、みんなが幸せな会社。

結局これって、「一人ひとりがちゃんと生きられる組織」ということなんじゃないか。

コントロールされずに、信じてもらえて、自分の言葉で自分のことを語れる。

「いきる組織」

生きる。一人ひとりが機能や役割としてではなく、人として生きている状態で働ける。

そしてこの言葉、「生きる」と「活きる」の両方が重なります。人として生きることと、その人の力が活きること。この二つが同時に実現する組織。

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握るから、開くへ

これが本当に機能するかはわかりません。

でも少なくとも、考える価値はあると思っています。

期待と願いの違いから始まって、評価制度の構造的な問題、同一労働同一賃金の見直し、自己申告と対話、秘密計算とLLMによる検証。そして「いきる組織」という名前に辿り着きました。

全体を通して一貫しているのは「握らない」ということです。

期待は握る。願いは手を開いている。報酬も会社が握るのではなく本人から始まる。検証も誰かが権力を握るのではなくLLMが見守る。

握るから、開くへ。

この記事を読んで、何を感じましたか?


参考

ノーレイティングについて

ティール組織・ビュートゾルフについて

給与オープン化について