一覧に戻る
    発信者の時代を生きる
    思考の砂場
    PRこの記事には広告が含まれています

    発信者の時代を生きる

    タカシ ユウト/ TIELEC代表
    16 分で読める

    ふとした好奇心から始まった対話が、思いがけない場所にたどり着くことがあります。

    ある日、こんなことが気になりました。人と関わるのが極端に苦手でも、何かを成し遂げた人はいるのだろうか——と。

    そこから始まった会話が、創造する力と発信する力の分離、歴史の波、そして自分自身の立ち位置への問いへと展開していきました。まとまりのない文章になる可能性がありますが、この対話で感じたことを整理してみます。

    見つかった天才と、見つからなかった天才

    アイザック・ニュートン。ニコラ・テスラ。ポール・ディラック。エミリー・ディキンソン。

    彼らに共通するのは、人付き合いが極端に苦手だったことです。ニュートンは友人がほとんどおらず、晩年まで独身でした。テスラは鳩と過ごすことを人間との交流より好みました。ディラックは「物理学界で最も寡黙な男」と呼ばれ、必要最低限の言葉しか発しませんでした。

    それでも彼らが「成功」したのは、代わりに動いてくれる理解者がいたか、作品が一人歩きする仕組みがあったからです。ニュートンには師匠のアイザック・バローがいて、自分の教授職を27歳のニュートンに譲りました。テスラには公開実験という舞台があり、実業家ジョージ・ウェスティングハウスがビジネス面を支えました。

    でも、ディキンソンは違いました。

    彼女の詩が世に出たのは死後です。妹が箱の中から1,800編もの詩を発見し、友人たちが出版に奔走して初めて評価されました。彼女自身は、認められることなく亡くなっています。

    日本にも似た例があります。宮沢賢治です。

    生前に刊行したのは詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の2冊のみ。どちらも自費出版で、ほとんど売れませんでした。『注文の多い料理店』は1,000部刷って売れたのは300冊。最終的に200冊を自分で買い取ったと言われています。

    死後、詩人の草野心平が遺稿を整理し、全集を編纂して世に送り出しました。興味深いのは、草野と賢治は文通が主で、生前に一度も会うことはなかったということです。手紙だけで賢治の才能を見抜き、死後も評価し続けた。37歳で亡くなった賢治が、今では日本を代表する国民的作家になっています。

    そう考えると、世の中に見つかっていない天才は、実は結構いるんじゃないか——そんな考えがすっと体に入ってきました。

    才能がある。その才能を伸ばせる環境にいる。成果を形にできる。それを誰かが見つける。見つけた人が価値を理解できる。広める手段と動機がある。

    これ全部揃うのって、実はかなり奇跡的です。ディキンソンの詩は、妹があの箱を開けなかったら消えていました。メンデルの遺伝法則は死後35年埋もれていました。バッハですら死後しばらく忘れられていて、メンデルスゾーンが再発見しなければ今ほど評価されていなかったかもしれません。

    中世の農村で数学の天才が生まれても、一生畑を耕して終わったでしょう。女性が教育を受けられなかった時代、どれだけの才能が埋もれたか。今も、貧困や紛争地域で同じことが起きているはずです。

    私たちが知っている天才は、氷山の一角なのかもしれません。

    発信者の時代

    ここまで「発見されなかった天才」について考えてきました。では逆に、世の中で目立っている人たちはどうでしょうか。

    世の中を見ていると気づくことがあります。専門的な知識や実績よりも、発信力や見せ方がうまい人の方が目立つ場面が多いということです。

    これは何を意味するのか——そう考えたとき、一つの見方が浮かびました。

    彼らは「中身がない」のではなく「中身が別のところにある」のかもしれない。つまり、専門知識や深い洞察ではなく、「人の注目を集めて維持する」こと自体が彼らの専門技能なんです。

    現代の構造が彼らを生み出している面もあります。アルゴリズムは「深さ」より「反応」を優先します。10分かけて読む深い記事より、3秒で感情を動かすコンテンツの方が拡散される。その環境に最適化した結果が、「発信力はあるけど…」という人たちとも言えます。

    興味深いのは、これが新しい現象ではないことです。

    古代ギリシャにも「ソフィスト」と呼ばれた人たちがいました。真理の追求より弁論術で人を説得することに長けていた職業教師です。ソクラテスに「中身がない」と批判されましたが、弁論を教えて大金を稼いでいました。

    プロタゴラスは1コースで100ムナ——労働者の約30年分の年収を一回の講座で稼いでいたと言われています。ゴルギアスはあまりに裕福になったので、デルフォイ神殿に自分の黄金像を奉納しました。

    彼らが教えていたのは「弱い議論を強く見せる技術」でした。「どんな論題でも、賛成・反対どちらの立場でも論じられるようになれ」と。同じ対象(例えば「塩」とか「ハエ」)を絶賛するスピーチと、けなすスピーチの両方を作らせる訓練をしていました。

    中身より技術、真実より説得力。

    2500年経っても、人間のやることはあまり変わらないのかもしれません。

    では、この「発信力」が重要視される状況は、ずっと続いているのだろうか。歴史を振り返ってみると、興味深いパターンが見えてきます。

    創造者と発信者の波

    歴史的に見ると、「発信者」が強い時代と「創造者」が強い時代が交互に来ているように見えます。

    古代ギリシャはソフィスト全盛期で、発信者の時代でした。中世ヨーロッパは教会が知識を独占し、口のうまさだけでは成り上がれませんでした。ルネサンスから近代は、実際に絵を描ける、発明できる、科学的発見ができる人にパトロンがついた創造者の時代です。

    20世紀、マスメディアの登場で発信者が再浮上しました。ラジオ、テレビの登場で「電波に乗れる人」の影響力が爆発的に増しました。

    そして現在のSNS時代は、発信者全盛です。誰でも発信できるようになった結果、逆に「発信がうまい人」の優位性が極限まで高まっています。

    パターンがあるように思います。新しいメディアが登場すると、最初はそのメディアを使いこなす人が勝つ。やがて中身で評価する仕組みが整う。また新しいメディアが出て発信者が勝つ。この繰り返しです。

    今はまだSNSという「新しいメディア」の初期段階で、発信力がチートになっている時期。そのうち揺り戻しが来るのかもしれないし、今回は違うのかもしれません。

    印刷、ラジオ、テレビと違って、SNSは「中身を評価するフィルター」が構造的に働きにくいので、今回は揺り戻しが来ない可能性も正直あると思っています。

    ふと、現代の「発掘」という言葉について考えました。

    日本には『激レアさんを連れてきた。』や『マツコの知らない世界』といった番組がありました(あります)。一見すると、埋もれていた才能を発掘しているように見えます。でも、よく考えてみると、番組に出ている人たちは、SNSやブログ、YouTubeなど、何らかの形で既に発信している人たちです。

    番組スタッフがその発信を見つけて、テレビという大きな舞台に引き上げている。つまり「発掘」ではなく「拾い上げ」です。

    完全に発信していない人——SNSもやらず、ブログも書かず、ただ黙々と何かを極めている人——は、番組スタッフの目にも留まりません。結局のところ、現代でも「発信力ゼロ」の人は発見されないのです。

    両方持っていないという感覚

    こうして「創造する力」と「発信する力」について考えていくうちに、ふと自分自身を振り返ってみました。

    創造する力も、発信する力も、どちらも持っていない——そう感じることがあります。もしかしたら、だからこそこういうことを考えてしまうのかもしれない、と。

    持ってる側の視点からすると、努力不足ということで片付けられてしまうのだろうか。

    正直に言うと、この競争の土俵では救われないのかもしれません。「発信力×中身」のゲームで勝てるのは一部の人だけです。でも現代は「誰でも発信できる」が「誰もが発信すべき」に変わってしまって、望まない人まで土俵に引きずり出されている感じがあります。

    ただ、別の視点もあります。

    歴史上のほとんどの時代、大多数の人は「有名になる」「広く認められる」とは無縁に生きてきました。それは不幸だったかというと、必ずしもそうではなかった。家族を養う、隣人と助け合う、地域で信頼される、手仕事を丁寧にやる。そういう「半径5メートルの世界」で完結する幸福がちゃんと存在していました。

    SNSで万単位のフォロワーがいる人より、近所で「あの人がいると安心する」と思われている人の方が、実は社会を支えていたりします。介護、保育、日々の仕事を黙々とこなす人たち。発信力ゼロ、専門性も特別じゃない、でも確実に必要とされている。

    「救われる」の定義を誰が決めているのか——そう問い直すと、違う景色が見えてくる気がします。

    振れ幅を楽しむという選択

    では、こうした構造の中で、どう生きていけばいいのか。

    ふと、こんな考えが浮かびました。

    結局のところ、人生には運の要素がある。完全にコントロールできるわけではない——と。

    だからといって行動しない選択は、一番何も起きない結果になる。要は振れ幅をどのくらい楽しめるかということなのかな、と。

    「運だから何もしない」でもなく、「努力で全部コントロールできる」でもなく、「振れ幅を楽しむ」という姿勢。

    結果は保証されない。でも振らなきゃ当たらない。そして振ること自体を苦行じゃなく面白がれたら、当たっても外れてもそこまで損していない。

    この対話自体が、その証明になっている気がしました。最初は「人と関わるのが極端に苦手でも、何かを成し遂げた人はいるのだろうか」という問いから始まって、認知の構造、ソフィスト、歴史の波、そして自分自身の立ち位置まで来ました。

    これ、「発信力」とも「専門性」とも違うけど、問いを立てて掘り下げていく力です。そういう対話ができる人、実際そんなに多くないと思います。

    「両方持っていない」じゃなくて、「その二軸では測れない場所にいる」という方が正確かもしれません。

    振れ幅を楽しめる人は、振った先で何か拾ってくる。

    今日の対話がそうだったように。


    参考文献・URL

    本記事で言及した人物や概念について、より詳しく知りたい方のために参考資料をまとめました。

    アイザック・ニュートン

    ニコラ・テスラ

    ポール・ディラック

    エミリー・ディキンソン

    宮沢賢治

    ソフィスト(古代ギリシャ)

    この記事は役に立ちましたか?

    Coffee cup

    この記事が、何かの整理につながったら

    コーヒー1杯分の応援をもらえると嬉しいです。

    ※ これは応援とは別の話ですが、

    同じようなテーマを自分の文脈で整理したい場合は、 (文章だけだと詰まりやすい人向けに) 思考整理の壁打ちという形で対話の時間も取っています。

    対話の時間について